(neu)
【 レントゲン博士への感謝】
私がレントゲン博士に特に関心を抱くようになったのは今から四半世紀以上も前にさかのぼる。旧西独逸はフランクフルト・アム・マインから東南約120kmの処に人口14万の古い都市ヴュルツブルグがある。現在は脚光をあび観光で有名なロマンチック街道の起始点をなし,市内はマイン河が貫流し,丘の上にはマリーエンベルグの古城がそびえ,中世の静かな面影を今に残す街である。この街の中心部に位置する場所にヴュルツブルグ大学の教養学部がある。同大学は1402年に創立された国立総合大学であり,ヨーロッパでも古い大学の一つに数えられる。私はこの大学の医学部に入学して最初の一学年の教養過程で物理学を習った。毎日通う物理学教室の外壁に「In
diesem Hause entdeckte W.C.Roentgen im Jahre 1895 die nach ihm benannten
Strahlen」(「1895年にこの教室で,W.C.レントゲンがレントゲン線を発見した」)と刻み込まれた銘板がかかげられている。私はこの記事に目を奪われた。あの有名なX線を発見した博士は,まさにこの大学で教鞭をとり研究されたのか,私は今一介の学生として同じ大学に籍を置く一員であるが時を越えて新たな感動が身を包むと同時に,急に博士に対して親近感を覚え,ひいては物理学に一層興味をひかれたことを今も忘れることが出来ない。
レントゲン博士の略歴をみると,1888年ヴュルツブルグ大学物理学主任教授,1895年ヴュルツブルグ大学物理学教室でX線を発見,1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞とある。私はヴュルツブルグ大学で基礎医学の過程を終了後臨床講義の資格を得て,内科学,外科学,小児科学等を学びそれと平行してポリクリニックがあり実習,講義を受けたがその間X線は不可欠であったことは今更言うまでもない。忙しさの中に歳月は速くも過ぎ去り独逸での医師資格を得て帰国する。日本では循環器専門医として冠動脈造影検査を長年行ってきたのであるがその後内科の道を選んだ現在,X線を利用することが実に多い。最近放射線学領域の進歩発展は著しく,X線CT,MRI等々画像診断に大きな力を発揮しているが,胸腹部,頭蓋骨,四肢骨,新生児乳幼児の分野,マンモグラフィーなどの単純X線写真の診断的意義は決して減弱するものではなく,その恩恵は実に大きい。現在日本医学の主流をなすのは米国医学であるが,日本医学の基礎をなしたのは実に独逸医学であったことは忘れ去られた感がある。今年はX線発見より112年目に当たるが,改めてX線の事歴に思いをはせ,W.C.レントゲン博士に深い感謝の意を捧げたい。
schoene Stadt Wuerzburg【アルテ・ブルッケからヴュルツブルグ・マリーエンベルグ城を眺める】
ヴュルツブルグ大学物理学教室の外壁に「1895年にこの教室で,W.C.レントゲンがレントゲン線を発見した。」と刻み込まれた銘板がかかげられています。
【わが母校のハンス・フランケ医学博士がレントゲン博士について記述した小論文】
Entdeckung zum Wohle der Menschheit
75 Jahre Roentgenstrahlen
von Dr.med.Hans Franke
Ordentlicher Professor fuer Innere Medizin
Vorstand der Medizinischen Poliklinik und Direktor
an der Medizinischen Klinik der Universitaet Wuerzburg
(人類幸福への発見)
Wilhelm Conrad Roentgen als Rektor der Universitaet Wuerzburg 1894.
(1894年ヴュルツブルグ大学総長のレントゲン博士)
Die Hand des Anatomen Geheimrats von Koelliker,
aufgenommen mit X-Strahlen von Wilhelm Conrad Roentgen
in Wuerzburg am 23.Januar 1896.
(1896年1月23日ヴュルツブルグにおいてレントゲン博士のX線で撮影された解剖学顧問アルベルト・フォン・ケェリカーの手指)
In seiner Nr.19 vom 24.Januar 1896 veroeffentlichte das 《Fraenkische Volksblatt》
die ersten Meldungen ueber die Entdeckung der Roentgenstrahlen.
(1896年1月24日のフランケン民衆新聞の19頁にレントゲン線発見の記事が最初に報道されました。)
Wuerzburg, vom linken Mainufer aus gesehen,eine Aufnahme Dr.W.C.Roentgens
zwischen 1890 und 1900.
(レントゲン博士により1890年から1900年の間にマイン河左岸から撮影されたヴュルツブルグの街)
《In diesem Hause entdeckte W.C.Roentgen im Jahre 1895 die nach ihm benannten
Strahlen》
steht in grossen Lettern am Physikalischen Institut der Universitaet Wuerzburg
am Roentgenring.
(《1895年にこの教室で,W.C.レントゲンがレントゲン線を発見した》
との大きな銘板がレントゲンリング通り沿のヴュルツブルグ大学物理学教室の
外壁に掲げられている。)
Die Urkunde ueber die Verleihung des Nobelpreises an Wilhelm Conrad Roentgen.
(ウイルヘルム・コンラート・レントゲンに授与されたノーベル賞証書)
Am 2.September 1921 verlieh der Wuerzburger Stadtrat Wilhelm Conrad Roentgen
das Ehrenbuergerrecht und wuerdigte damit die Verdienste des 《grosser Forschers
und Wohltaeters der Menschheit》.
(1921年9月2日にヴュルツブルグ市参事会はレントゲンに名誉市民権を授け偉大な研究者と人類の恩人の功績を称えました。)
Am 8.November 1970,dem 75.Jahrestag der Entdeckung der Roentgenstrahlen,
uebergaben der Verschoenerungsverein Wuerzburg und der Bayerische Staat
das von Norbert Kleinlein geschaffene Roentgen-Ehrenmal der Oeffentlichkeit.
(レントゲン線発見75周年目の1970年11月8日にヴュルツブルグ都市美化委員会と
ババリア州はノルベルト・クラインラインにより創作されたレントゲン記念碑を公開した。)
【付加】この小論文は1976年12月14日内科学講義の際に
ハンス・フランケ教授から直接頂きました。
ヴュルツブルグ大学はレントゲン博士をはじめ8名のノーベル賞の受賞者を出しています。
【我母校の8名のノーベル賞受賞者】
@Wilhelm Conrad Roentgen AEmil Fischer BEduard Buchner CWilhelm Wien
DJohannes Stark EHans Spemann FKlaus von Klitzing GHartmut Michel
どのような教育理念も,時代の流れという嵐に吹きさらされ,それぞれの形で風化してゆくもので
ありますが,古代ギリシアのスパルタの教育も,ドイツ帝国プロシア教育も,戦後日本を風靡した
民主主義教育でさえも,今は,古びた岩石のように,ぼろぼろと欠け落ちてしまいました。自国の
文化を否定し他民族の文化を真似ることしか考えない国には何も独創的なものは生まれません。
教育の大半は青春時代に獲得出来るものであります。この大切な時期青春をもし人に「青春とは」
と問いかけられれば私は江田島の旧海軍兵学校でいわれていました言葉を掲げます。
「青春とは,意気であり熱であり,かえりみるときの微笑みである・・・・・・」
(文書の一部は豊田穣氏の江田島教育を参考にしました。)
【もし独逸に関して更に興味がありますお方は
ここからお入り下さい。美しい国への参考と
なれば嬉しく思います。】
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